渋沢栄一(1840~1931年)士魂商才 日本経済の礎を築いた「論語と算盤」新一万円札の顔にも
幕末の大政奉還を経て政権は徳川幕府から天皇、そして明治新政府へ。大隈重信らに見いだされて明治新政府の大蔵省で財政を切り盛りし、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)設立に大きく関わる。大蔵省退官後は実業界で日本経済の活性化に尽力。設立やサポートに関わった企業は500を超えると言われ近代日本経済の礎を築いた渋沢栄一。その根本には「士魂商才」と日本国のために尽くすという志がありました。2024年からの新札一万円札の顔にも決定しています。
渋沢栄一の生涯
・1840年 3/16武蔵国血洗島村(埼玉県深谷市血洗島)の豪農の長男として誕生。幼少時は孔子の『論語』などの書物、剣術、家業の藍などを学ぶ。
・1858年 尾高千代と結婚。
・1863年 江戸に出て、横浜の外国人居住地の焼き討ちを計画するなど攘夷討幕の志士として活動していたが、そのことが幕府にばれて追われる身になる。千葉道場の友人の縁で平岡円四郎と会い、一転、京都で一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)に仕えることになる。一橋家で御勘定頭になるなど出世。
・1867年 2月、慶喜の異母弟、徳川昭武のお供として、フランスのパリ万博への同行。続いてヨーロッパ各国を訪問。1868年12/6に帰国。
・1869年 帰国後、栄一は水戸藩主となった徳川昭武を助けるため働こうとしていたが、宝台院にて駿府に隠匿していた元主君の徳川慶喜と会い、駿府藩主の大久保一翁の説得を受け、駿府藩の財政立て直しに動くことを決意。この頃から栄一は「論語と算盤の一致」を基本に置いていた。静岡で「商法会所」を開くなど(お金を商人に貸して大規模に商売をしてもらい、収益を増やしり、米などの売買をした。今の銀行+商社のようなもの)実績を上げる。同年、その情報を聞きつけた幕府の大隈重信が中央に呼び寄せられ、(伊達宗城や郷純造の推薦)伊達や大隈に説得されて大蔵省に祖税正として入ります。
・1873年 複式簿記の導入など、大蔵省時代に数々の仕事をこなした栄一は大蔵少輔という大蔵省ナンバー2の地位にまで出世しました。しかし、藩閥政治に嫌気がさしたのと、民間で経済活性化を主導したいとの思い、元から慶喜公に仕えた身として新政府で長く仕事をする気はなかったので、同年5月大蔵省を退官。
その後は「士魂商才」「論語と算盤」の精神で、第一国立銀行(みずほ銀行)頭首をはじめ、様々な企業の設立に関わりました。生涯で500以上の企業・病院・学校・福祉施設の設立・サポートに関わり、近代日本の経済的繁栄の礎を築きました。
・1875年 商法講習所を設立。
・1916年 経済界から引退。
・1931年(昭和6年) 11/11 病没。
士魂商才と論語と算盤
栄一が好んで使った言葉「士魂商才」とは、武士たる誇りと道を忘れずに(民を幸福にする責務を負っている者の心構え)商人としての経済手法を取り入れる、という意味です
『論語』は古代中国の、孔子と弟子の問答集で、人の道徳観を説いた本。
「論語と算盤」とは、道義を伴い利益を追求せよという意味。渋沢栄一は人の道である道徳と経済を両立させる「道徳経済合一説」を説き、常に公益を高めることを考えていました。経済を活性化させることで国を富ませ、実業で人々を豊かにするという志で生きていました。「自利利他」の精神を貫きました。『論語』を心に留めて生きた栄一だからこその信条ですね。
西郷隆盛との会談
大蔵省時代、渋沢栄一のもとに当時政府の参議だった西郷隆盛が訪ねてきました。西郷から、二宮尊徳が相馬藩(福島県)に伝えた興国安民法(報徳仕法)が、新政府の財政改革で廃止になるとのことだが、これを新政府でも活用できないかという相談でした。栄一は西郷に興国安民法がどういうものかを説明し、それは結構ですが、一藩のことより、大任を預かる参議として国全体のお考えをお持ちでないなら本末転倒ではないですかと伝えたところ、西郷は黙って帰ったという。
西郷の他にも幕末は新撰組の近藤勇や土方歳三、栄一の主君だった徳川最後の将軍:徳川慶喜、明治新政府の重臣の井上薫や大隈重信、伊藤博文ら、数多くの歴史的人物と交流のある稀有な人物でした。しかし旧幕臣だったことで、幕臣を嫌う大久保利通とは相性が悪かったそうです。大久保に嫌われた時は井上馨の機転で大阪の造幣寮へ出向し、大久保らが岩倉使節団として日本を発つと、大蔵省に復帰しました。
大蔵省のエリートから民間の事業者へ
大隈重信に抜擢人事で大蔵省に入った時、栄一は凄い嫌われようでした。しかし、半年もするとその仕事ぶりから慕われていたといいます。
栄一が大蔵省を辞した理由として、藩閥政治が嫌になったことも一因でした。当時、政府の中枢には長州藩(山形有朋、井上馨)・薩摩藩(西郷隆盛、板垣退助)・佐賀藩(大隈重信、江藤新平)らがいましたが、国のためというより自分の藩のための派閥争いに嫌気がさしたところもあったようです。それと同時に優秀な人材が政治に吸収され、実業界が手薄になってしまうのではという懸念を感じていました。元から、一度は慶喜公に仕えた身の栄一は、新政府に来たのも慶喜公の助言によるもので、長居する気はなかったのです。
そんな中、江戸時代は「士農工商」と一番下に置かれていた民間で商いをしている者達の地位を上げていきたい。「合本主義」と「バンク」の力を試し普及させたいという思いが強くなり、1873年5月、大蔵省を辞しました。
栄一の最大の危機は国立第一銀行時代、当時、銀行は金との交換を約束する兌換紙幣しか発行できませんでした。金不足になり窮地に陥った栄一は政府と掛け合い、金との交換を約束しない、国が信用を保証する不換紙幣を銀行で発行できるように法律の改定をお願いし、明治9年(1876年)にその通り改定されました。
生涯において、幕府に追われ、一橋家に仕えるかどうかの時に切腹を考えたり、幕末の動乱機は新撰組と一悶着あったり、馬車に乗っている時に刺客に襲われたりしたこともありましたが、大事なく生き延びました。
渋沢栄一が関わった会社
みずほ銀行、王子製紙、東京海上日動火災保険、東京ガス、東洋紡績、キリンビール、サッポロビール、東京証券取引所、日本郵船、川崎重工、JR北海道、JR東日本、帝国ホテル、日本赤十字社、清水建設、日本経済新聞、一橋大学、東京経済大学、日本女子大学、国士館、東京都健康医療センター etc…etc
渋沢栄一からの学び
滅私奉公から活私奉公
森喜朗元首相の家の座右の銘が「滅私奉公」というのは有名な話ですが、渋沢栄一氏の生き方からも国のために「滅私奉公」していこうという姿勢が強く感じられます。渋沢栄一氏にとっての「活私奉公」は傍から見たら「滅私奉公」だったのかも。(本人は自利利他の精神といっていますが)2020年の今から約150年前、近代日本の礎を築いた明治維新。その頃には大蔵省に帯刀して出向いていたというのですから、世の中変わるものですね。故・中曽根康弘元首相の著書『自省録』で、戦争で国のために死んでいく仲間を間近で見て「私の中に国家がたまっていった」という記述を強く記憶していますが、渋沢氏にしても中曽根元首相にしても、動乱の中でしか経験しえない出来事を通して国家をためていったのかもしれません。
渋沢氏の敬愛した『論語』において、現代風に訳すと
弟子が言いました。「もし人民にひろく施しができて、多くの人が救えるのはならば、それは仁と言えるでしょうか。」
孔子は答えました。「仁どころではない、それは強いて言えば聖だね(仁より素晴らしい)」という一文があります。
『論語』では、「仁を以て人間の幸福を増進する最高の道」と捉えることができます。
渋沢氏の一貫した姿勢、日本国の公益追及は、これを目指したのだろうと思います。
「滅私奉公」は誰にでもできることではないですが、「活私奉公」ならグッとハードルは下がるのではないでしょうか。令和の時代は活私奉公で共栄していきたいですね。