1501年~1603年(室町・戦国・安土桃山時代) 1603年~1867年(江戸時代)

徳川家康(1543~1616年)苦節57年!江戸幕府260年の礎を築いた忍耐の神君 

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徳川家康(1543~1616年)苦節57年!江戸幕府260年の礎を築いた忍耐の神君

「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」三河の小大名・松平家の長男として生を受けた徳川家康。母と生き別れ、幼少期は織田家・今川家の人質に。三河(静岡県)の大名として独立した後は織田信長、豊臣秀吉の天下統一を助けます。1600年10/21東軍大将として「関ヶ原の戦い」(岐阜県諏訪郡)を制し、天下を手中にしたのは家康が満57歳の時でした。激動の生涯で培った忍耐・経験・知力で江戸幕府260年の礎を築きました。死後は神様「東照大権現」となって栃木県の日光東照宮で神君として祀られています。

 

徳川家康の生涯

・1543年(天文11年) 1/31三河(愛知県東部)の小大名:松平広忠の長男として岡崎城で誕生。幼名は竹千代。数年後、母である:お大の方の兄が尾張の織田家についてしまったため、今川家に従っていた松平家は、お大の方(家康の母)と離縁。

・1547年 人質として駿河(静岡県)の今川義元の元へ行く予定だったが、家臣の裏切りにより尾張(愛知県西部)の大名:織田信秀の元に。尾張で2年程過ごし、信秀の長男:織田信長(1534~1582年)と出会い、信長のことを兄のように慕ったという。

・1549年 父:松平広忠が暗殺されると、今川義元は織田信秀の子、信長の異母兄にあたる織田信弘と竹千代を人質交換する。竹千代は駿府(静岡県静岡市葵区)に送られ、今川義元の軍師:太原雪斎に文武を習ったといわれる。

・1555年 人質の立場のまま元服。次郎三郎元信と名乗る。(後に元康に改名)今川義元の姪(諸説あり)の築山殿と結婚する。

・1558年(永禄元年) 初陣を勝利で飾る。

・1560年 今川軍の一員として尾張の織田攻めに同行。丸根砦を陥落させるなど武功をあげるが6/12「桶狭間の戦い」(愛知県豊明市)で今川義元が織田信長に討ち取られる。人質の立場から解放され故郷の岡崎城に凱旋。三河国の守護大名として今川氏から決別していく。

・1562年 「清州同盟」清州城で尾張の織田信長と同盟を結ぶ。戦国時代には珍しく、この同盟は信長が死ぬまで守られた。

・1563年 名前を家康に改名。今川義元からもらった「元」と決別。

・1564年 前年から手を焼いていた三河一向一揆を平定。

・1566年 徳川姓に改姓。

・1568年 織田信長が足利義政を奉じて上洛。

・1569年 「掛川城の戦い」で今川義元の後を継いだ今川氏真を降伏させる。

・1570年 「姉川の戦い」(滋賀県長浜市)で織田・徳川連合軍約25000が浅井長政・朝倉義景の連合軍約13000を破る。家康軍の榊原康政が浅井軍を横撃し、勝利に導いた。

・1572年 「三方ヶ原の戦い」武田信玄が大軍を率いて西上作戦を開始。武田軍は眼中にないかのように家康の浜松城を素通りする。背後を突こうと討って出た家康だったが、待ち構えていた武田軍に大敗する。家康は捨て身で家康を守る家臣達に助けられ、命からがら浜松城に逃げ帰る。恐怖で馬上でウンチをもらしていたという。その時のことを忘れないためか『しかみ像』という肖像画を残したとされる。

・1575年 「長篠の戦い」(愛知県新城市)織田・徳川連合軍約38000が武田勝頼軍約15000を破る。馬房策と鉄砲3000丁が勝利の鍵だった。

・1579年 徳姫(信長の娘で信康の妻)が家康の妻の築山殿と長男:信康が武田軍と内通しているとの報を、信長に知らせる。信長は家康に処分を命じ、家康は三河国を案じて築山殿を暗殺し、信康に切腹を命じたとされます。(真相は諸説あり)
「高天神城の戦い」(静岡県掛川市)武田勝頼軍に奪われた高天神城を兵糧攻めで落とし、取り返すことに成功。

・1582年 6/21「本能寺の変」明智光秀が織田信長を裏切り、討つ。安土城(滋賀県近江八幡市)に招かれた帰りで堺にいた家康は、大きな街道を避けて目立たない伊賀(三重県)の山道から三河へ帰ることを決める。道中は伊賀の地理に詳しく、父が伊賀の忍者だったとされる服部半蔵が伊賀・甲賀の忍者の協力を得て、無事三河に帰ることができたといいます。

・1584年 「小牧・長久手の戦い」(愛知県小牧市)織田信長の次男、織田信雄のぶかつと協力して羽柴秀吉軍と対峙。数で勝る秀吉軍相手に有利に戦いを進めたが、秀吉と信雄が和睦したため双方兵を退いた。

・1586年 秀吉は家康に対して懐柔策に出る。秀吉の妹の朝日姫を家康に嫁がせ、更に秀吉の母:大政所も人質として家康の元に送った。ついに家康は折れ、大阪城で秀吉に謁見し忠誠を誓ったという。

・1590年 「小田原征伐」家康は北条氏と同盟を結んでいて降伏を促したが、北条氏政・氏直親子は抗戦の構えをとった。秀吉は各地の大名に討伐命令を出し、小田原城は20万もの秀吉の連合軍で囲まれたという。家康も豊臣軍の一員として参加。上杉謙信も武田信玄も落とすことができなかった難攻不落の小田原城だが、5月に北条氏と同盟を結んでいた伊達政宗が豊臣軍に付いたことで勝ち目はなくなり、北条氏は7月に降伏した。
小田原征伐の後、家康は秀吉に地盤を築いてきた三河や駿河を中心とした領地から、関東一帯の領地への配置転換を命じられる。石高数は増えたが、故郷からは離れることになった。

・1592年 「文禄の役」秀吉の命により大軍が朝鮮出兵したが、家康は名護屋城(佐賀県唐津市)の守備につき、行かなかった。

・1597年 「慶長の役」二度目の朝鮮出兵命令。この時も家康は行かなかった。

・1598年 9/18豊臣秀吉が病没。家康は秀吉から子どもの秀頼(満5歳)の後見人となり支えるよう遺言を受ける。

・1600年 「関ヶ原の戦い」(岐阜県不破郡関ケ原町)秀吉亡き後、五大老筆頭の地位につき反豊臣の姿勢を見せていた家康と、五奉行筆頭で豊臣秀頼を推す石田三成の対立が表面化。家康は三成が軍を動かすように仕向け、三成に伏見城を落とさせることで戦いの大義名分を作ったと言われています。遂に10/21家康を大将とする東軍約75000、毛利輝元を大将とする西軍約80000が激突。家康は西軍の武将に調略根回ししていたとされ、小早川秀明の裏切りなどがありその日のうちに西軍を破る。天下分け目の決戦を制した家康は事実上、天下人となった。

・1603年 後陽成天皇から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開く。江戸城の増改築をはじめる。

・1605年 将軍職を子の秀忠に譲る。「大御所」と呼ばれ実権は握ったままだった。

・1614年 「大阪冬の陣」で豊臣秀頼を攻める

・1615年 「大阪夏の陣」で豊臣氏を滅亡させる。「武家諸法度」「一国一城令」「禁中並公家諸法度」を発布

・1616年 6/1病没

 

天下の三武将を例えたホトトギスの句

後世の詩人が、天下人三武将の性格を詠んだ句が有名です。

織田信長「鳴かぬなら 殺してしまえホトトギス」
豊臣秀吉「鳴かぬなら 鳴かしてみせようホトトギス」
徳川家康「鳴かぬなら 鳴くまで待とうホトトギス」

他にも
「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに食うは徳川」
という江戸時代後期の歌もあります。

 

強引に豊臣家を滅ぼした大坂の陣

徳川家康も老齢にさしかかっている1614年、豊臣氏が京都に作った「方広寺」の鐘銘が「君臣豊楽」、「国家安康」と刻まれていました。
そのことに対し、豊臣家の繁栄を願い家康に不敬だとして言いがかりをつけ(「国家安康」で「家」と「康」が離れているので家康を呪っているとした説がある)豊臣秀頼に圧力をかけ、それに抗戦した秀頼と「大阪冬の陣」が開戦しました。難攻不落の大阪城は、南門に出城・真田丸を築いた真田幸村の奮戦もあり豊臣軍も善戦し、家康は秀頼と一時は和睦。
しかし和睦の条件として外堀を埋める約束でしたが、家康はついでに内堀も埋めて大阪城の防御力を低下させた上で、また難癖つけて「大阪夏の陣」で豊臣氏を攻め、淀殿と秀頼を自害に追い込み豊臣氏を滅ぼしました。家康本陣に決死の突撃を敢行した真田幸村軍を、同時代に生きた島津忠垣は『薩摩旧記雑録』で「日本一ひのもといちつわもの」と称賛しました。

事実だけ見ると極悪非道。
読書家だった家康は『吾妻鏡』『愚管抄』『論語』『史記』などを好んで読んでいたとされ、1159年「平治の乱」で平清盛が子どもだった頼朝・義経らを助命したことで後に逆襲された歴史を知っていたからこそ、徹底的に豊臣氏を滅ぼしたという説があります。立派な武将に成長していた秀頼を警戒したとも。

その後、家康の相談役だった崇伝と天海という僧侶に相談し、死後は天海の提案した神号「大権現」が採用され、「東照大権現」として祀られる神になりました。

 

家康を支えた徳川四天王と徳川十六神将

徳川四天王は
・榊原安正
・本田忠勝
・酒井忠次
・井伊直政の4名。

四天王に12名を加えたものが徳川十六神将です。
・米津常春・松平康忠・高木清秀・服部正成(服部半蔵)・平岩新吉・内藤正成
・大久保忠世・大久保忠佐・渡辺守綱・蜂屋貞次・鳥居元忠・鳥居忠広

 

江戸幕府の地盤を固めた家康

・大名を親藩、譜代、外様に分け、全国各地に絶妙に配置。

・「武家諸法度」で戦国時代のように大名が反乱を起こさないように取り締まった

・「禁中並公家諸法度」で天皇・貴族の力も制限

 

家康万能説

家康の人物像として、数々の説があります。

・剣術の腕も一流、柳生新陰流や一刀流の奥義も覚えていた
・弓も鉄砲も名人
・読書家、勉強家
・記憶力が良く、全ての家臣の顔と名前を憶えていた
・健康オタクで自家製の菜園で薬草を調合していた
・趣味は囲碁・将棋や鷹狩り
・好奇心旺盛で外国人を家臣にしたり、船を作ってスペイン・ポルトガル・東南アジアなどと貿易をして外国の物品を取り入れていた
・質素倹約な生活をしていた。遺産は二百万両以上あった(現在の2000億円以上)etc

 

徳川家康からの学び
失敗から学ぶ 反省を怠らない

激動の人生を送り、遂に天下統一を成し遂げた徳川家康。天下統一だけでなく、天下泰平の徳川将軍家・江戸幕府260年の礎を築きました。信玄の挑発に乗ったといわれる三方ヶ原の戦いを忘れなかったり、長篠の戦いでは鉄砲の有用性に気付き研究、豊臣家を滅ぼして不安の芽を摘むなど、培った経験から学び続けていた家康だからこそ成し得た偉業だったのではないでしょうか。

家康の遺訓として
「人の一生は重荷ををひて遠き道を行くが如し いそぐべからず 不自由を常とおもへば不足なし こころに望みおこれば困窮したる時を思ひ出すべし 堪忍は無事長久のもとい いかりは敵とおもへ 勝事かつことばかり知てまくる事をしらざれば害其身がいそのみにいたる おのれを責て人をせむるな 及ばざるは過たるよりまされり」

上記遺訓が有名です。家康らしい深い言葉ですね。
*家康の言葉ではなく、水戸黄門で知られる徳川光圀(1628~1701年)が書いた『人のいましめ』という本が元という説もあります。

 

 

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