紀元前~1000年(縄文~平安時代)

平将門(?~940年)武士の反乱 坂東に旋風を巻き起こし数々の怪伝説を残した新皇

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平将門(?年~940年)武士の反乱 坂東に旋風を巻き起こし数々の怪伝説を残した新皇

平安時代中期、武士の反乱「平将門の乱」で知られる平将門。朝廷(京都)の朱雀天皇に対して、自身を「新皇」と称して坂東(関東地方)を平定し、そして朝敵として討たれました。首だけになって飛んでいったなどの怪伝説も多くある人物です。

 

平将門の生涯(?年~940年)

・902年~910年頃 下総(茨城県西部と千葉県北部)の平良将の息子として誕生。桓武天皇の直系の5代の孫と考えらえています

・若い頃は京都に仕えていた将門でしたが、下総に戻ってくると父の領地が叔父たちにとれられていることを知り、一族内の対立、戦いを制して坂東地方での勢力を拡大、地位を確立しました。

・940年「平将門の乱」 国司に追われる身の常陸国(茨城県)の豪族、藤原玄明はるあきを匿ったことで朝敵となった将門。常陸国に攻め入り、その流れのまま下野国(栃木県)上野国(群馬県)も攻略。朝廷の天皇に対し、自ら「新皇」と名乗り坂東国を打ち立てようとしました。
将門の動きを警戒した朝廷は破格の賞金を将門にかけ、討伐軍を結成。平貞盛・藤原秀郷ひでさとらの討伐軍が将門を討ちました。将門は眉間を矢で射抜かれたといいます。

 

朝廷出身の役人「国司」と地方の豪族「郡司」の対立

この頃は朝廷(京都)の天皇を頂点とする貴族が、地方に「国司」として役人を送り、その下に地方の豪族が「郡司」として任命されていました。国司のやり方を快く思わなかった郡司も多くいて、平将門に同調する者は多かったといいます。将門の反乱に朝廷は大慌て、破格の賞金をかけ、将門討伐を命じました。

 

平将門の人物像

将門は武勇に優れ、女性にも優しく、敵であっても殺さずに情けをかけるなど、民衆からも慕われていました。近隣諸国から将門を慕ってくる者も多く勢力を拡大、民衆の朝廷への不満を感じ取り、坂東国を打ち立てるという方向へ舵をとったと考えられています。

将門伝説500年以上後の江戸時代にも語り継がれ、歌舞伎や浮世絵の題材にとりあげられています。

 

語り継がれる平将門にまつわる怪伝説

怨霊・祟り・呪いといった怪伝説を多く持つ平将門。それだけ、朝廷から恐れられる事件・存在だったのでしょう。伝説の一部をご紹介します。

・身長7尺(約2.1m)、全身が鉄のように硬く、弓矢を跳ね返した

・将門が植えた梅の木は見事に育ったが、梅の実は青いままだった。それが現在の東京都青梅市の由来となった。

・将門の首は日本で初めて「獄門」(首をさらし者にすること)されたと言われていますが、平安京・七条河原に晒された首が夜な夜な叫び声をあげたといいます。さらに、やがて首が胴体を求めて坂東の方向へ飛んでいったという。途中で力尽きた首は数か所に落ち、将門の首塚として伝承されました。

・上記伝承の首塚として千代田区大手町が有名ですが、関東大震災で焼けた大蔵省庁舎を再建する際に首塚を壊しました。すると首塚後の仮庁舎を建設した数年の間に大蔵大臣や工事関係者ら10人以上が亡くなり、怪我人や病人が続出して仮庁舎は取り壊された。さらに戦後、米軍が首塚を整地しようとした際、何故かブルドーザーが横転して運転手が亡くなりました。

 

平将門からの学び
執念

首だけになっても生きていた?と言われる驚異の生命力と執念。人生においても、確固たる信念、執念で取り組むということは大事ではないでしょうか。

 

 

 

 

 

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