1501年~1603年(室町・戦国・安土桃山時代)

武田信玄(1521~1573年)風林火山の旗の下、戦国最強と謳われた武田騎馬隊を率いた甲斐の虎

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武田信玄(1521~1573年)風林火山の旗の下、戦国最強と謳われた武田騎馬隊を率いた甲斐の虎

甲斐(山梨)の虎、武田信玄。戦国武将の中でも常に1.2を争う人気を誇り、人々を惹きつけています。父親である武田信虎を国外追放して甲斐国の守護を継ぎ、自分に背いた嫡男の武田義信を自刃させる、必要であれば同盟・同盟破棄も辞さないと、一寸の油断が命取りとなる戦国の世を体現するような生涯でした。

 

武田信玄の生涯(1521年~1573年)

・1521年(大永元年)11/3 甲斐国の守護・武田信虎の嫡男として誕生。幼名、太郎もしくは勝千代。

・1536年(天文5年)元服。武田晴信と名乗る。

・1541年 悪政を憂い、家臣団と結託して父親:武田信虎を駿河国(静岡)に追放。

・1547年 甲斐国の分国法「甲州法度之次第」(信玄家法)を制定

・1550年 村上義清の砥石城を攻めるが、敗退する。(砥石崩れ)*砥石城は翌年、配下の真田幸綱(幸隆)が攻略する。

・1555年 信濃(長野)を制圧

・1559年 出家し、信玄に改名。

・1561年(永禄4年) 最も激しかった4度目の川中島の戦い

・1567年 謀反の疑いで嫡男・武田義信を自刃させる(義信の正室は今川義元の娘で、今川氏との同盟維持の立場をとり、信玄と意見が衝突したとも推測されています)

・1572年 京を目指して進軍。三方ヶ原の戦い(静岡県浜松市北区)で(武田軍約27000・徳川軍約11000)徳川家康を破る

・1573年5/23 上洛を目指して進軍中に病没。

 

好敵手!上杉謙信との川中島の戦い

「甲斐の虎」と称される武田信玄のライバルが「越後の龍」上杉謙信でした。龍虎相博つ。信玄は領土拡大のため、上杉謙信と川中島(長野盆地)で5度も戦っています。
・1553年 1回目
・1555年 2回目
・1557年 3回目
・1561年 4回目
・1564年 5回目

最も激しい戦いだった4回目の合戦では、山本勘助の「きつつき戦法」を看破した上杉謙信が武田軍本陣に切り込み、信玄は軍配でこれを受けたという逸話も残っています。武田軍はこの戦いで信玄の実弟・武田信繁、山本勘助、諸角虎定といった重臣を失いました。
川中島の戦い全体での結果としては、ほぼ引き分けという見解が多いです。信濃の領土は拡大できた信玄、越後への勢力拡大を防ぐという目的は達成した謙信という構図です。

敵同士であった信玄と謙信ですが、信玄は遺言として勝頼に「困ったら謙信を頼れ」と伝え、謙信もまた信玄の死を知った時、「名大将を死なせたものだ。英雄人傑とは、この信玄のような人物をこそいうのだ。関東の武人は柱を失ったも同然。まことに惜しいことだ」と言って涙したといいます。お互いの力量を認め合う関係でした。

 

風林火山の戦術と武田家を支えた武田二十四将

武田軍の旗にも使用された「風林火山」の戦術は『孫子』の兵法から用いたとされています。
風・・・疾きこと風の如く
林・・・しずかなること林の如く
火・・・侵掠しんりゃくすること火の如く
山・・・動かざること山の如し

武田二十四将とは、武田家に仕えた家臣団の中でも重鎮達です。
築城の名手であり軍師としての役割も担ったとされる山本勘助、家康も恐れた武勇・山県昌景、武田家三代に仕えた馬場信房、第四次川中島の戦いで武田本陣の危機を救ったとされ、『甲陽軍鑑』の元になる書物を残した高坂昌信、真の副将と呼ばれた内藤昌豊、明治の「自由民権運動」で知られる板垣退助の先祖とされる板垣信方は特に有名です。

 

戦上手だけではない外交・内政の政治手腕

信玄は戦上手で明確な敗戦はたった3回しかなかったとも言われています。そして外交・内政面でも力を発揮した人物です。

・身分の上下に関わらず能力のある人材を登用し、山本勘助、内藤昌豊ら強力な家臣団を築きました。

・御勅使川、釜無川、笛吹川など河川が多く水害の絶えなかった甲府盆地に、信玄堤と呼ばれる堤防造りの治水工事を約20年かけて行い、農業生産や生活を安定させる。信玄堤は現在でも機能しています。

・金山の開発を行い国を豊かにした。最大級の黒川金山の麓は黒川千軒と呼ばれる賑わいに。

・甲州法度、法律で国の治安維持を行う。

・今川義元の娘と嫡男の武田義信が結婚、自身の娘は北条氏康の子の氏政に嫁がせ、北条氏康の娘は今川義元の息子の今川氏真と結婚、といったように自国の繁栄のため、他国との同盟関係を利用しました。

・「足長坊主」の異名をとる程、各地の情報に精通し情報を重視していた信玄。身寄りのない少女に忍びの術を仕込み各地で諜報活動させたとの逸話もあります。「三ツ者」と呼ばれる隠密集団を組織し、各地の情報収集に余念がなかったようです。だからこそ、戦も連戦連勝だったのかもしれませんね。

・館に水洗トイレ的なものを作っていたとされています。京間6畳のトイレで、信玄が鈴を鳴らすと、家臣がお風呂の残り湯を流したのだとか。お香も炊いていたといいます。時代の先を読む目を備えていました。

・奉公人に、今でいうフレックスタイム勤務を導入していた。

 

信玄亡き後の武田家

信玄の後は四男の武田勝頼が継ぎましたが、1575年の「長篠の戦い」で、騎馬隊への対策として馬防柵と3000丁の鉄砲隊を備えた織田・徳川連合軍に大敗してしまいます。(武田軍約15000・織田徳川軍約38000)その後、盛り返すことなく1582年、追い詰められた勝頼は山梨県天目山で自殺し、武田家は滅亡しました。
武田家終焉の地、山梨県甲斐大和駅。

 

武田信玄からの学び
人は石垣 人は城 人は堀 情けは味方 仇は敵なり 家臣団を団結させたリーダーシップ

甲斐の武田軍の強さには信玄の元での団結力があったとされています。父親を国外追放、息子は自刃させるなど非情な面もあった信玄ですが、内政・外交・戦と成果を出し続け、家臣団の結束と信頼、民衆からの支持も厚く、優れたリーダーでした。

 

武田信玄の名言

・人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり

・信頼してこそ、人は尽くしてくれる

・渋柿は渋柿として使え。接ぎ木をして甘くするなど小細工である。

・戦わず勝つのも兵法なり

・為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ

・一日一つの教訓を学べば、一月三十条となる。これが一年となれば三百六十箇条ものことを知ることとなる

・戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となる。五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は驕りを生ず。

 

 

 

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