1001年~1500年(平安・鎌倉・室町時代)

北条時宗(1251~1284年)神風吹く!蒙古フビライ・ハンの元寇を退けた鎌倉幕府の8代執権

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北条時宗(1251~1284年)神風吹く!蒙古フビライ=ハンの元寇を退けた8代執権

強大な力を誇ったフビライ・ハン率いるモンゴル帝国が標的にしたのが「黄金の国ジパング」こと日本。日本史上初の海外からの大規模な侵略に対し、迎え撃った鎌倉幕府の中心が8代目執権・北条時宗でした。元寇で日本の命運を握った戦いに命を擦り減らしたのか、時宗は満32歳の時に早逝しました。

 

北条時宗の生涯

・1251年(建長3年) 6/5鎌倉幕府5代目執権:北条時頼の子として生まれる。幼名は正寿せいじゅ

・1257年 元服。時宗を名乗る。

・1264年 7代目執権・北条時政の連署になる。(執権の補佐役。事実上ナンバー2の地位)

・1268年 元(モンゴル帝国)からの使者が国書を大宰府に持ってくる。朝廷や幕府にも届けられる。内容は要約すると、「国交を開きなさい、兵を出すようなことはしたくない」(言うことをきかないと兵を出す?)というもの。そんな時、北条時政から執権を継ぎ、時宗は8代執権となる。朝廷は返書も考えていたが、鎌倉幕府の決定で無視し、防備を固めていく。その後も何回か使者が来たが、幕府は無視する。日本の使者が元に視察に行ったという話もあります。

・1271年 『立正安国論』を提唱していた日蓮宗の宗家:日蓮を佐渡に島流しにする。

・1274年(文永11年) 「文永の役」11月(旧暦10月)、元の大軍約30000人、900艘近い船で攻めてくる。対馬・壱岐を侵略し、博多湾近辺から上陸開始。僧侶達は祈祷し、待ち構えていた九州の御家人集団らと激しい戦いとなる。11/19に上陸した元軍は翌日11/20には姿を消したとある。日本軍が予想以上に強かったため退いた、弓が尽きた、最初から脅しが目的だった、撤退中に暴風雨(神風)で壊滅したなど、いろいろな説があります。文永の役の後、幕府は博多湾の海岸線に高さ2~3mの防塁を築いていき、元の再来に備えていきます。

・1275年 元からの使者:杜世忠らが国書を持ってくるが、鎌倉幕府の執権・時宗の命により斬首に処される。元は1279年にも使者を送るが、再び斬首される。

・1281年(弘安4年) 「弘安の役」再び攻めてきた元軍。その規模は兵数約14万~15万、2手に別れた900隻+3500隻というとてつもない規模の大軍でした。対馬などを侵略し、6月には博多湾近辺から侵攻。だが、日本側はこの日のために築いておいた石塁もあり、元軍をくい止める。8/15(旧暦7/30)の夜、大型台風(神風)の直撃を受けた元の大艦隊は壊滅的被害を受け(海が損壊した船や死体で埋め尽くされたという)撤退した。

・1284年(弘安7年) 4/20病没。

 

集団戦法と日本にはない新兵器に戸惑う 対して日本軍は祈祷する

モンゴル軍は千戸制という組織で(10人の隊を10個で100人隊を作り、それを10個集める)統率のとれた集団戦法を得意としていました。対して日本軍は名乗って一騎駆け、少数で手柄を競って先駆けする文化があり、当初そうした者達は元軍の四方八方からの集団戦法で容赦なく葬られました。

さらに元軍は日本より弓の性能が良く、毒も塗られていたといいます。「てつはう」という手榴弾のように炸裂する、日本にはない兵器も使ってきました。「文永の役」では元軍の方が優勢に戦っていたとされています。*しかし元軍はすぐに退却したといいます
日本の兵器?としては「文永の役」「弘安の役」共に高野山など全国の神社やお寺が勝利を願う祈祷を行いました。

「弘安の役」では築いてきた防塁(博多湾岸に高さ2~3mの石塁が20km近く築かれたといいます)が功を奏し、2か月以上大規模な上陸を防ぎ、暴風雨(神風)により劇勝しました。

*フビライ=ハンは懲りずに3度目の日本侵攻を考えていたとの説があります。鎌倉幕府も備えていましたが、フビライ=ハンは国内の内乱に対処しているうちに亡くなり、3度目はありませんでした。

 

元寇の影響 御恩と奉公の関係に亀裂

鎌倉幕府と御家人の間には鎌倉幕府が「御恩」(領地など)を与え、御家人はそれに対して「奉公」(仕える)するという関係がありました。しかし外敵であった元軍を倒しても、御家人に対して与える領地が幕府にはありません。十分な褒美をもらえず御家人の生活は苦しくなり、幕府との関係に大きな亀裂が入ることになりました。

 

北条時宗からの学び
人事を尽くして天命を待つ

世界史上でも有数の大艦隊を送り込んできた元。日本は備えと神風ともいわれる暴風雨によりこれを撃退しました。北条時宗としては正に「人事を尽くして天命を待つ」心境だったのではないでしょうか。人事を尽くしたからこそ、神風を味方につけることができたのかもしれません。
弘安の役の前、時宗は禅宗(臨済宗)の僧、無学祖元を師と仰ぎ「莫煩悩まくぼんのう」(煩悩を断ち切り進め)という言葉を与えられたといいます。時宗の人物像として、流鏑馬が得意だったという話も伝わっています。

 

 

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