1501年~1603年(室町・戦国・安土桃山時代)

上杉謙信(1530~1578年)毘沙門天の化身・軍神と恐れられた戦国最強の義の武将

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上杉謙信(1530~1578年)毘沙門天の化身・軍神と恐れられた義の武将

戦国最強の武将の1人、越後の龍・上杉謙信
毘沙門天の化身、天下をとった織田信長も武田信玄と並んで恐れた大名です。
戦においては生涯で約70戦中、明確に負けたの2戦だけとも言われ、驚異的な戦績を残しました。

 

上杉謙信の生涯(1530年~1578年)

・1530年(享禄3年)1/21 越後(新潟)の守護代、長尾為影の子として誕生。幼名:虎千代。7歳から林泉寺に入り天室広育の教えを受ける。武芸・兵法ともに抜きんでた才覚を発揮。

・1543年(天文14年)元服して長尾景虎を名乗る。

・1548年 家臣らの推挙に押される形で家督を継ぎ、越後の守護代となる。

・1561年(永禄4年) 鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉憲政から上杉家と関東管領の職を継ぎ、上杉政虎に改名。武田信玄との川中島(長野盆地)の戦いで、最も激しかったと言われる4回目の合戦も同年。妻女山に布陣した謙信軍13000が海津城の武田軍20000と対峙。信玄の軍師、山本勘助による挟み撃ちの「きつつき戦法」を看破し、八幡原にて車懸りの陣などで武田軍に大打撃を与える。謙信自身も武田軍本陣に切り込み、信玄は咄嗟に軍配で謙信の太刀を受けたという逸話もあります。13代将軍:足利義輝から1字をもらい上杉輝虎と改名。

・1570年(元亀1年)出家し、上杉謙信を名乗る。

・1575年(天正3年)手取川の戦いで、織田軍の豪将:柴田勝家を総大将とする軍勢を破る。

・1578年3/13 急病で病没。

 

毘沙門天の化身

幼少より仏門を学んだ謙信は41歳で出家。仏教における仏神の四天王、持国天、増長天、広目天、多聞天(毘沙門天)の中でも北天を護る毘沙門天を特に信仰し、自身を毘沙門天の化身と称していたという話も残っています。毘沙門天は日本においては七福神の一尊でもあります。

明治時代の書物『名将言行録』には、謙信は伝記などを読み「源義経から武略を学んだ」とあります。無敗の戦の天才・義経と軍神・上杉謙信。相通じるものがあったのでしょうか。

戦の他にも、布の材料である青苧売買や、直江津の港を拠点に日本海ルートの貿易で、度重なる戦の経済的地盤を支えました。

 

上杉四天王と屈強な越後兵

謙信の軍の強さには、上杉四天王と呼ばれる優秀な配下と、戦国時代でもトップクラスの強さを誇った越後兵の力がありました。
上杉四天王とは忠臣・直江景綱、軍師・宇佐美定光、猛将・柿崎景家、川中島の戦いで殿を務めたことで知られる・甘粕景持の四名です。
越後兵の強さの秘密としては、悪条件での稲作で鍛えられた足腰、4m以上ある長槍を駆使した長槍部隊の話がよく聞かれます。

 

上杉謙信が負けた2つの戦い

軍神と崇められた上杉謙信にも2つの負け戦があったと言われています。

・1561年「生野山の戦い」・・・北条氏康の軍に敗れる。同年の川中島の戦いでの兵の疲れがあった。

・1566年「臼井城の戦い」・・・原 胤貞さねさだの軍に敗れる。相手側の軍師・白井入道浄三の活躍により撃退されたとされている。

 

上杉謙信の女性説

上杉謙信は実は女性だったのではないか?という説もあります。

・謙信の死因は「大虫」と言われる。大虫とは女性の生理を表す言葉。また、合戦中に腹痛に悩むことが多かったとされる。

・民衆の間で「男もおよばぬ大力無双」と歌った歌があるとされる。男性に対して「男もおよばぬ」という表現は使わないのでは?

・生涯不犯の誓いを立て、一生独身だった。一方で、若い男性を好んだとする説もある。

・外国の記録に「叔母の謙信」と記されているものがある。

 

上杉謙信からの学び
「敵に塩を送る」義の生き方を通した生涯

故事の「敵に塩を送る」は上杉謙信の逸話が元とされています。
群雄割拠の戦国時代においても私利私欲の戦いは殆どせず、義の生き方を通した上杉謙信。敵である武田信玄の甲斐が今川氏真に塩止めされた際、その行為は人道に背くとして敵である武田に塩を援助したとされます。もちろん逸話ですが、武田信玄も死ぬ間際、息子である勝頼に「困ったら謙信を頼れ」と言い残したとされるように、ライバルからも畏敬の念を持たれる存在でした。同じく敵であった北条氏康も謙信のことを「骨になるまで義理を通す人物」と称しています。
ぶれることなく自分の信念を貫き通し、敵からも称賛された軍神・上杉謙信。信念を貫くというのは現代でも大事なことですね。

 

上杉謙信の名言

・大事なのは義理の二字である。

・人の上に立つ対象となるべき人間の一言は深き思慮をもぅてなすべきだ。軽率なことを言ってはならぬ。

・人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり。
*信玄が亡くなり、弱体化した武田家を攻めてはと家臣に進言された時に

・極楽も 地獄も先は 有明の 月ぞ心に かかる雲なき(辞世の句)
*私の死後が極楽なのか地獄なのかはわからないが、どちらに行くことになっても、雲のかかっていない明月のように曇りなく晴れやかである

・四十九年一睡夢いっすいのゆめ 一期栄華いちごのえいが一杯酒いっぱいのさけ(辞世の句)
*49年の人生は一睡の夢のようだった。この世の栄華は一杯の美味い酒に等しい。

 

 

 

 

 

 

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