西郷隆盛(1827~1877年)明治維新の英雄 維新三傑は西南戦争で士族の魂を抱いて天へ
1853年黒船来航。外国勢力の脅威が高まる激動の幕末。薩摩藩の下級武士の子だった西郷隆盛ですが、薩摩藩主:島津斉彬に見いだされたのをきっかけに公武合体の推進、薩長同盟を経て討幕へ。戊辰戦争でも活躍した鹿児島の英雄・西郷隆盛。誠実実直で優しい、みんなから愛される人徳者でした。私生活では犬を可愛がり、10匹以上飼っていました。
西郷隆盛の生涯
・1827年 1/23薩摩藩の下級武士:西郷吉兵衛隆盛の長男として誕生。(鹿児島県鹿児島郡加治屋町)幼少期は吉之助と呼ばれる。
・1839年 友達と喧嘩をした際、恨みを持った相手に報復されて右腕に深手を負う。剣が握れなくなったため学問で身を立てることを決意。(怪我の原因は他にも諸説あり)怪我の後も体格が良かったため、(成人時の体格は身長180cm体重110kg程)相撲は強かった。
・1844年 薩摩藩(鹿児島県)の郡方書役助になる(農業調査や年貢の監督をする仕事)
・1851年 最初の妻「須賀」と結婚するが、多忙と困窮で2年程で離婚
・1854年 薩摩藩主:島津斉彬に見いだされ、参勤交代に付き従い江戸へ。
・1855年 西郷家の家督を継ぐ。
・1858年 島津斉彬が急逝。さらに「安政の大獄」により、井伊直弼らを排斥しようと動いていた西郷達は追われ、仲間の月照と共に入水自殺を図るが、西郷は生き残る。薩摩藩はその後、西郷を奄美大島に潜伏させる。奄美大島では「菊池源吾」を名乗り島妻の「愛加那」と結婚、2子を授かる。
*薩摩藩の法律で島の女性は本土へ連れていけなかったため、愛加那とは島を出る際に別れる
・1862年 大久保利通らの進言で藩政に復帰するも、薩摩藩の実権を握っていた島津久光と折り合いが悪く、不興を買い徳之島へ島流し。その後さらに沖永良部島に島流しにされる。同年、島津久光は薩摩藩の攘夷派を粛正した5/21「寺田屋事件」を起こす。
・1863年 前年1862年の「生麦事件」の影響で8/13~8/15イギリスと薩摩藩で「薩英戦争」勃発。 「八月十八日の政変」孝明天皇と薩摩藩・会津藩を中心とする公武合体派が尊王攘夷派の長州藩を京都から追放。
・1864年 大久保利通らの進言で西郷は赦免され藩政に復帰。新撰組が「池田屋事件」で長州藩士を襲撃。報復として長州藩が京都に攻めてきた「禁門の変」で、西郷達は長州兵を撃退。その後、長州征伐の参謀に任命され、妥協案を提案しこれを解決。坂本龍馬との縁もできる。
・1865年 3人目で最後の妻:糸子(イト)と結婚。後に3子を授かる。
・1866年 坂本龍馬らの仲介で長州藩の代表:桂小五郎(木戸孝允)と薩長同盟を結ぶ。討幕への体制を整えていく。
・1867年 15代将軍:徳川慶喜が10/14「大政奉還」江戸幕府終焉に。その後、「王政復古の大号令」が出る。
・1868年(明治元年) 1/3「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに新政府軍と旧幕府勢力の対決「戊辰戦争」がはじまる。西郷も参謀として参戦。2月には箱根を占領し、3/13・3/14には勝海舟と会談し、4/11の江戸城無血開城につなげる。戊辰戦争を新政府軍の勝利へと導く。
・1869年 「版籍奉還」
・1871年 明治新政府の参議に任じられ「廃藩置県」の政策を実施。同年11/12明治政府の中枢を担った要人ら岩倉使節団(岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文ら)が不平等条約改正と視察のため欧米に渡る。留守政府を預かった西郷隆盛は大久保らから「大きな改革や人事をするな」ということを諫言され立腹したという。それに反発したのか、西郷隆盛、大隈重信、板垣退助、江藤新平らは1872年に「学制」、1873年に「徴兵令」、「地租改正」など改革を進めた。
・1873年 9/13岩倉使節団が帰国。西郷は「征韓論」(西郷は武力ではなく自分が大使となって交渉しようとした)を主張するが退けられ、政府から去る。その後は1874年、鹿児島で文武を教える私学校を開いた。
・1876年 大久保利通政権が「廃刀令」を出し、士族の秩禄(給料)も廃止される。
・1877年 「西南戦争」西郷の私学校を危険視する政府は鹿児島から弾薬を持ち出したり、スパイの警官を潜入させたりしていた。それに気付き怒った私学校の生徒達が陸軍の火薬庫を襲い、収拾がつかなくなったのがきっかけと考えられています。腹心の桐野利秋らも反政府を唱え、西郷は政府に反逆する気はなかったとされますが、私学校の会議で後戻りできない状況になっているのを感じ「おはんたちがその気なら、おいの体は差し上げもそ」と伝え、最終的には士族達を率いて決起します。2/15進軍開始、13000程の西郷軍は熊本城を攻めきれず敗戦が続き、8/16には軍を解散。西郷隆盛は9/24城山(鹿児島県鹿児島市城山)で銃弾を受け、別府普介に介錯を頼み自刃。
維新三傑であり郷土の盟友・大久保利通
西郷隆盛もその一人に数えられる明治維新の功労者「維新三傑」あとの二人は
長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と、同郷の3歳下の大久保利通でした。特に大久保利通は西郷と同町内で幼少期を過ごし郷中(薩摩藩の学校のようなもの)で学び合い、お互いが苦しい時には助け合った(大久保の父が謹慎処分された時は西郷が援助し、西郷が島流しになった時には大久保が援助)竹馬の友とも言うべき存在でした。同志であった二人が結果的に西南戦争で敵味方に別れてしまったのは皮肉な話ですね。郷土の鹿児島県では圧倒的に西郷隆盛が人気で大久保利通は嫌われてすらいるという話もありますが、西南戦争で首謀者が西郷隆盛であると知った時、大人になってから初めて大久保は涙を見せたといいます。大久保利通は1858年5/14、東京の紀尾井坂(千代田区紀尾井坂町清水谷)で暗殺されてしまいますが、懐には西郷からの2通の手紙がありました。道は違えど、友情は続いていたと信じたいですね。
*西郷隆盛の生家と大久保利通が幼少期を過ごした家は100m程の距離と近く、さらに加治屋町内には東郷平八郎(1848年~1934年)の生家もあった。
明治維新の数々 近代日本の誕生
・1871年「廃藩置県」・・・各地の領土と国民を天皇に返還
・1872年「学制」・・・6歳以上の男女は小学校教育を受けることに
・1873年「徴兵令」・・・20歳以上の男子に兵役の義務
・1873年「地租改正」・・・土地の収穫高に対して米を村単位で納めていた制度を改め、土地の価格の3%の現金を個人で納める制度に変更
・1869~1874年にかけて電話・郵便・鉄道・銀行・富岡製糸場(群馬県富岡市)などの官営工場の創業・軍隊・警察の設置etc
・士農工商の身分制度の廃止。四民平等。
・髷を結う習慣からの脱却が図られ「ザンギリ頭 たたいて見れば 文明開化の音がする」という歌も。
士族の不満が爆発!西南戦争
急速に変革を進める明治政府ですが、それまで各地を治めていた士族は既得権益を失い、不満のマグマは高まり続ける状況でした。1876年に廃刀令、さらに士族の給料だった秩禄が廃止されると各地で不満が臨界突破。熊本県「神風連の乱」、福岡県で「秋月の乱」、山口県で「萩の乱」と士族による反乱が続発。その流れで、西郷隆盛も士族の死に場所を作るかのように、両軍合わせて10000人以上の死者を出した西南戦争を起こすことになります。
西郷隆盛からの学び
敬天愛人
誠実実直な人柄で誰からも愛された西郷隆盛が好んだ言葉が「敬天愛人」天を敬い人を愛すること。私たちも敬天愛人の心構えを大事にしたいですね。京セラ創業者の稲森和夫氏が経営の心構えとして掲げた言葉としても知られています。